2007年11月03日

宗教者としての日本国憲法(その3)

今回は、「宗教者としての日本国憲法」と題して、カトリックたかとり教会の吉岡秀紀神父と、浄土宗済鱗寺の明石和成住職においでいただきました。



9月16日の放送を3回に分けた、その3回目をお届けします。



教会やお寺など、それはある種、世間から隔離されて、何をしているのか分からない……と思われがちです。
しかし、宗教者も、私たちと変わらない一市民なのです。
平和であるための方法を伝えていくためにも、宗教者の側も、市民の側もそれに気づき、それぞれの垣根を越えていくことが必要なのかもしれません。

信じるものを信じていける、信教の自由。
私たちの生活を守り、平和を守るためには、憲法を守っていくことが重要なのです。


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宗教者としての日本国憲法(その2)

今回は、「宗教者としての日本国憲法」と題して、カトリックたかとり教会の吉岡秀紀神父と、浄土宗済鱗寺の明石和成住職においでいただきました。

9月16日の放送を3回に分けた、その2回目をお届けします。




信教の自由を規定した20条の第3項が、変えられようとしています。
その変更事項を見てみましょう。



憲法20条3項 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。」


自民党新憲法草案第20条3項 「国及び公共団体は社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。」



曖昧な言葉で、煙に巻かれそうになりますが、よく見てみましょう。
「国家は宗教活動を行ってはならない」から、「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超える宗教活動を行ってはならない」になっています。

つまり、「社会的儀礼または習俗的行為の範囲」を超えなければ、国家やその機関も宗教活動を行えるということなのでしょうか。
これでは、かつて、国民を戦争へと導いた国家神道のようなものが、再来するとも限りません。


私たちのよく見えないところで、様々な動きが出てきています。
いつの間にか巻き込まれていた……という事にならないためには、もっと注意深くアンテナを張らなければいけないのでしょう。




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宗教者としての日本国憲法(その1)

今回は、「宗教者としての日本国憲法」と題して、カトリックたかとり教会の吉岡秀紀神父と、浄土宗済鱗寺の明石和成住職においでいただきました。



9月16日の放送を3回に分けた、その1回目をお届けします。




みなさん、政教分離という言葉を聴いたことはあるでしょう。
それは国家神道の下に戦争に進んだという反省から生まれたものです。
しかし、宗教者自身の間で「宗教者は一切政治に関する発言をしてはいけない」というような、大きな誤解が発生しているようです。


今、9条の変更のほかに、信教の自由を規定した20条の変更も主張されています。
平和、そして信仰の自由が脅かされつつある今、そのような誤解があるままでは、この難局を乗り越えることはできません。


憲法とは、誰のためにあるものでしょうか。
国民を縛るためのものですか?
いえ、むしろ、国家を規制するもののはずです。
それなのに、なぜ憲法を変えようという意見が国家から出るのでしょうか。
そのこと自体に疑問を投げかけるべきなのかもしれません。



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